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相撲の歴史
 
 序章

相撲が日本の国技と言われるようになったのは、明治42年(1909)に国技館が完成した際に、作家の江見水陰が開館式の案内状に書いた、『相撲は日本の国技である』というのがきっかけであるといわれている。
『国技館』という名もこの文章を見た年寄が考えつき、採用されたのである。
この命名が及ぼした影響は決定的で、その後の相撲は日本の国技としての地位を固めていく事になるのである。
相撲が国技と言われるに相応しいのは、長い歴史と伝統があり、それらを守りつづけてきたからであろう。
私は、小学校4年生のときから祖父や両親がテレビで相撲を見ていた影響で、相撲に興味を持った。その当時の私にとって、回しを締めただけの裸でぶつかる力士、髷を結っているその姿、土俵etc… すべてが不思議なものだった。いかにも、現在の日本には合わなさそうな古くさいものが、何故こんなに人気を呼ぶのだろう。それが当時の私にはわからなかった。
しかし、その長い歴史の中で、相撲は、人々に娯楽として楽しまれたり、感動を与えたり、多くの影響を与えてきたのである。
そんな相撲の歴史と文化を、この機会に今までよりも深く理解し、そして現在の相撲のあり方を考えたい。

第1章: 『神話時代から続く日本の相撲』

●神話の中の相撲

今や『日本の国技』と言われる相撲。その歴史は長い。それは神話時代にまで遡る。
決して現実にあった訳ではない、古代の人々が作り出した神話にまで相撲が登場してくるのだ。
『古事記』には、天孫降臨の際、大国主命(おおくにぬしのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に対し、出雲国を譲る事を拒んだために、天照大神が建御雷神(たけみかづちのかみ)を派遣したところ、大国主命の御子、建御名方神(たけみなかたのかみ)との力くらべで解決しようと申し出た、とある。
この力くらべの方法は、互いに手を取り合い、投げ合う形で競技をするものであったと言われている。そして力くらべの結果、建御雷神が建御名方神を投げ飛ばして勝ち、出雲国を手にする事が出来たのだ。
勝った建御雷神は鹿島神宮の祭神となり、武神として武術家やスポーツマンの信仰を集めている。一方、敗れた建御名方神は、長野県の諏訪に逃れて諏訪大社の祭神となった。同じく武神として祭られている。
しかし、これらの話が現実にあったかというと、あくまで文献としてあるだけで、神話であるから、歴史上の確かな証拠とは言えない。
日本の相撲史の始まりといわれるのは、『日本書紀』に書かれている、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力くらべである。
これは、垂仁天皇7年7月7日に行われたと記されている。垂仁天皇7年7月7日というこの日付けは、元々日本書紀が書かれたあたりは、七夕の頃に相撲を行う慣習があったため、このような特異な日の事実として日本書紀に登載しただけで、実際この日に行われた訳ではない。
この当時の相撲は、現在の相撲からは想像できないくらいはるかに荒っぽく、乱暴で、何でもありという感じであった。土俵も無く、相手を殺すか降参させるまで闘い続けた。
彼らの勝負は、両者とも足を上げて蹴り合い、抱え上げて投げ飛ばすなど、死闘を繰り返した末、宿禰が蹶速の肋骨を蹴折り、腰骨をも踏み砕いて殺し、勝利を手にしたという。
奈良県桜井市穴師にある大兵主神社の庭が、その死闘の地と言われていて、神社の入り口には、『宿禰蹶速角力之跡』という標柱が建っている。
勝った宿禰は相撲の始祖としてまつられている。宿禰と蹶速は郷士の家柄だと言われている。彼らの力くらべのほかにも、この時代には当時の天皇が時折力の強い郷士たちを集め、天覧相撲が行われていた。

●神事相撲

天覧相撲とはまた別に、庶民の間でも、農耕儀礼として相撲が行われていた。近隣の村と比べどちらが豊作になるかを占う為、それぞれの村の力自慢を代表選手として送り出し、勝負をさせて、その結果によって豊凶を占った。そして豊作となったときは、神様に感謝の気持ちをこめて奉納相撲を行った。
史実としては、奈良時代、神亀2年(725)の全国的な凶作のとき、聖武天皇が21の大社に勅使を送り込んで神の加護を祈念したところ、その翌年大豊作となり、その感謝を表すために各社の神前で奉納相撲を行ったという記録が残っている。
このように、神様に占問して結果を求めるために行われた相撲を神事相撲といい、現在でも日本の各地で盛んに行われている。

●相撲節会(すまいのせちえ)

相撲節会とは、節会相撲ともいい、天候の温順と豊作を神様に祈るために諸国から有力な相撲人を宮中に集めて定期的に開催された1つの儀式だった。
奈良時代に入ると、天皇家や貴族たちにも相撲は愛好されるようになった。聖武天皇は、神亀5年(728)に、諸国の郡司たちに対し、相撲人を貢進する旨を命令した。
『勅して曰く、諸国郡司達よ、部下に騎、射、相撲及び膂力の優れた者があれば、速やかに王、公卿や大臣に献上せよ。もしこの命に反すれば、国司ならば位記を追奪し免職、郡司ならば先ず罰を加えてから免職にする。(意訳)』
驚いた事に、命令に反すれば罰則を加えられるのだ。ここまでして何故相撲人を集めようとしたか。その頃には相撲は単なる遊びでだけではなく、武芸や軍事的なものとして取り扱われていたのではないだろうか。
現にこの相撲節会に召し出された相撲人は諸国の防人だった。
天平6年(734)7月7日に、七夕祭りの余興として天覧相撲が行われた。このとき行われたものが、相撲節会の端緒となった。
天平年間に入ると、相撲は全国的に盛んになり、天皇家の貴族たちが宮廷で催すようになった。そして天平10年の七夕にも再び天覧相撲が行われた。
相撲節会がさらに発展したのは、平安時代に入ってからだ。規模も以前より大きくなり、単なる余興ではなくなった。制度諸式も整えられた。
弘仁年間(810〜824年)には、相撲節会は宮中儀式の独立した儀式として行われるようになった。
中国の唐の儀式を真似た中に相撲を取り入れたもので、猿楽の一団である舞楽、曲芸師、相撲係員などが、左右(今でいう東西)の相撲人34人を囲んで、およそ300人が楽の音と共に入場するという大変豪華なもので、天覧のもと、白砂の上で相撲を取り、勝負が一番終わるごとに勝ち力士側の雅楽が奏され、勝負の数を明らかにするために籌刺(かずさし)という役人が地上に矢を立てた。取組が全部終わると、この矢の合計数で左右どちらが勝ったかを決めていた。
運営進行は、皇族、貴族など5位以上の高官達によって行われ、観戦できるのもそれら高官達だけだった。総監督である相撲司には、多くの場合、親王が任命され、歌人として有名な在原業平も任命された事があった。彼は相撲もなかなか強かったようだ。
やがて武士が政権を握り、皇室、朝廷の力が衰えてくると、相撲節会は中断される事が多くなり、ついに、承安四年(1174)、高倉天皇の儀式を最後に廃絶してしまった。
それにしても、300数十年にわたり催された宮中相撲は、現代の相撲においても大きな意味を持っている。相手を死に至らしめるような乱暴な技は禁じられ、相撲そのものが洗練され、今日の相撲の基本的な形態がこの時期に形成されたのであった。

●武士政権時代の相撲 

鎌倉時代に入り、武士が政権を握っていたが、相撲は武士の間で、心身の鍛練や戦闘に役立つ武術として盛んに行われるようになった。
節会相撲末期には半ば職業化していた相撲人達は、武士として武将に仕え身を立て始めていた。一方で、故郷に帰った農民出身の相撲人達は、宮中の洗練された相撲の技と作法を教え、土地相撲を盛んにしていった。
武士たちは相撲を武術化した一方で、娯楽としても楽しんでいた。酒宴の余興などに、力自慢の者同士で相撲を取るのが流行った。
安元2年(1176)、源頼朝の前で河津三郎と俣野五郎の相撲が行われた。当時頼朝は伊豆に流されていたため、その退屈を慰めるために部下たちは、天城山中で狩猟を行い、酒宴を催した。その余興で相撲が行われたわけである。
俣野五郎は力自慢で知られ、あっという間に21人を投げ飛ばしてしまった。それに河津三郎が挑んだ。熱戦の末に河津三郎が俣野五郎を投げ飛ばし、勝利した。
しかし俣野五郎が仕える武将、工藤祐経はこの相撲を恨みに思い、部下を使って河津を暗殺してしまう。これがきっかけで、能や狂言、歌舞伎で有名な『曽我兄弟の仇討ち』へと発展するのである。
この勝負で、河津が用いた技として、『河津掛け』という技が今も残っている。しかし、これは、実は俣野が河津にかけた技であったというのだ。
それでは、何故『俣野掛け』ではなく『河津掛け』になってしまったのか。それは、江戸時代中期に普及した相撲四十八手に『蛙掛け(かわずがけ)』という技があり、どうやら芝居好きの江戸っ子が語呂合わせで『河津掛け』としゃれたのが真相のようだ。
源頼朝は相撲好きだったようで、文治5年(1189)に相撲節会を真似た上覧相撲を鎌倉の鶴岡八幡宮で催し、その後もしばしば行ったことが『吾妻鏡』に記されている。その後の将軍も相撲を好んで奨励し、武家の間に相撲は完全に定着した。
しかし鎌倉時代末期には上覧相撲もすたれ、支配階級の人々よりも、庶民や地方大名の間で相撲熱が高まっていった。
室町時代には、庶民が経済力を持つようになってきたため、それまで神事相撲として農村で行われていた相撲が、都市の庶民の間でも娯楽として行われるようになったのだ。
一方地方大名は相変わらず武術としての相撲を高く評価し、これを奨励していた。室町時代末期になると、セミプロの相撲人が各地で出現し、諸国への巡業が始まった。これは江戸の勧進相撲に繋がっていると言って良いだろう。
戦国時代になると、地方大名によって相撲は武術としてますます愛好され、織田信長は特に大の相撲好きとしても名を知られている。
彼は元亀元年(1570)から天正9年(1581)まで、多数の力士を集め、安土城などでたびたび上覧相撲を行ったことが『信長公記』に詳しく記録されている。
彼は相撲大会の開催に際して色々細かい規則を定めたりし、より勝負を明確なものにしようとしていた事がうかがえる。

●江戸時代の勧進相撲

やがて戦乱も収まり、徳川家康が天下をとって政権が江戸に移されると、職を失った浪人者を交えた職業的力士集団が各地に発生し、大坂、京都、江戸をはじめとする都市部の盛り場で勧進相撲が盛んとなる。
勧進相撲とは、寺社の建立や改修、橋の掛け替えなどの寄付金集めのために催す相撲大会の事である。現在、番付の中央上には『蒙御免(ごめんこうむる)』という文字が見られるのだが、これは勧進相撲の名残で、寺社奉行や町奉行から相撲興行の許可を得たという意味である。
勧進相撲の歴史は古く、室町時代に始まったと言われている。当時は勧進のための田楽や猿楽が頻繁に行われており、そこに相撲が加わったのも当然の事であった。
初期の勧進相撲は大坂や京都が中心で、江戸での興行の際には京阪相撲が下ってきていた。江戸で最初の勧進相撲は寛永元年(1624)、横綱の始祖である明石志賀之助(第2章参照)が四谷塩町の笹寺で行った晴天6日間の興行というのが通説である。しかし、明石志賀之助はその実在すら疑われている伝説の人物のため、この勧進相撲についてもはっきりした事は分からない。
初めは、勧進という名の通り、寄進を勧めるための相撲興行であったが、次第にそうした目的から離れ、力士たち自身の生活のための営利的執行へと変わっていった。しかし、寺社奉行の許可を求める必要から、勧進相撲という名はそのまま使用された。そして結局昭和19年まではその名を通した。
勧進相撲のほかにも、都市の盛り場では投げ銭目当ての辻相撲というのも頻繁に行われていた。
相撲興行は、しばしばけんか騒ぎを起こし、風紀を乱すという理由から、たびたび弾圧を受けた。
慶安元年(1648)から享保5年(1720)の間、幕府は数回にわたって相撲禁止令を出し、勧進相撲などを厳重に取り締まった。しかし、それでも庶民の相撲熱は衰えることなく、取り締まりの目を盗んでは、辻相撲が行われていた。
おおっぴらに相撲が取れなくなった力士たちは、大名屋敷などに招かれ、相撲を見せるなどしていたが、やはり生活に困窮するようになった。困り果てた相撲集団は、その打開策として、けんかの原因になりやすい勝敗の決着を明確にするため、相撲作法(規則)を作り、四十八手の決め手を制定し、土俵を現在の形にするなどして興業としての形態を整え、相撲興行の許可を願い出た。
そしてようやく貞享元年(1684)相撲集団を取り締まる責任者が町奉行に願い出て、公許勧進相撲の許可が取れるようになった。責任者のことを京阪では頭取、江戸では年寄といった。
元禄時代(1688〜1704)に入ると、有力な力士が数多く集まる京阪を中心として、勧進相撲が盛大に復興する。そして、番付が制度として成立したのもこの頃である。
当時の番付は板にかかれたもので、盛り場の辻などに立てられていた。紙に刷られた番付が発行されたのは享保2年(1717)、京阪相撲でのことである。
最初の番付は、東西それぞれの力士が別々に書かれた2枚組の横番付であった。現在のように縦1枚で東西に分けた番付が出来たのは江戸で、宝暦7年(1757)10月の冬場所からである。新興の江戸相撲が、依然として相撲の中心であった京阪に対しての対抗意識から新しいデザインの番付を考案したという。
京阪相撲には、後援者として大商人がついていて、各地から数多くの力士を集め、実力と人気を兼ね備えた相撲集団を形成していた。それに対し江戸相撲というのは、京阪相撲に迎えてさえもらえない2流どころの力士の集団であった。
しかし、江戸が大都市へと成長していくにしたがって、江戸相撲は関東を中心に東北地方の力士をも吸収し、次第に力をつけていく。
宝暦、明和の頃(1751〜72)になると、現在の相撲協会にあたる相撲会所の制度が整ってくる。興行や巡業の運営は全国的に組織化され、年功者の力士は、年寄となって新たな力士を養成する相撲部屋を経営するようになり、相撲は新たな発展の時代を迎えるのである。
天明、寛政の頃(1781〜1801)になると、相撲界の中心は京阪から江戸に移る。その理由としては、
@江戸が首都としての機能を高め、人や富が多く集まるようになり、都市としての力をつけたこと。江戸相撲にも京阪相撲に負けないほどの後援者がつくようになり、力のある力士が集まるようになった。
A力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、京阪の相撲部屋の所属でありながら、江戸の年寄に弟子入りして江戸相撲に参加する事が可能になったという事。
大名は、各藩内で職業力士を養成し、力のあるものには扶持を与えて抱え力士としたり、他国の名のある力士をスカウトするようになり、相撲興行のたびにお抱え力士を貸すというシステムをとるようになった。大名にとって強豪力士を多く抱える事がステータスシンボルとなったのである。
江戸が相撲の中心となると、その組織も全国的なものになってくる。東西の力士の交流が盛んとなり、三役、幕内、幕下上位は江戸で春冬の各2回、京都大坂でも各2回ずつ定場所の土俵に上がるようになった。
そして寛政の江戸相撲は谷風、小野川という強豪力士(第2章参照)の登場で黄金時代を迎える。彼らは、今日のように横綱免許(第2章参照)をもらった初の力士たちである。そして、その後も、相撲史上最強の力士と言われる雷電他、横綱も含め多くの力士たちが活躍した。

●近代の相撲

ペリー来航によって長い間の鎖国がとかれ、日本は明治維新が起こる。しかし、これは、古くからの歴史と伝統を受け継いできた相撲界にとっては、大変厳しいものになった。
廃藩置県による大名の消滅で、それまで大名のお抱えとして、その庇護のもとで生活していた力士たちは、経済的な独立を図らなければならなくなった。明治維新によって不安な生活を送っていた人々は、とても相撲見物どころではなかった。
明治2年(1869)3月、明治天皇が京都から江戸に移られるのに際し、京都の力士に錦旗奉持の命があった。そして、東京の力士たちは、品川高輪の大木戸までお迎えに出て、錦旗を引き継いで皇居までのさきがけの光栄をになった。
このように相撲界は新政府に協力的だったにもかかわらず、西洋文明に習って近代国家への道を歩もうとしていた政府は相撲界にとって冷酷ともいえる態度をとった。文明開化の波は、相撲を江戸時代の旧弊とし、『相撲のような野蛮なものは禁止すべき』という記事が新聞に載る有様だった。しかも、明治4年(1871)8月には断髪令がだされ、力士の髷は、格好の攻撃目標となってしまった。
しかし、相撲に理解のある高官によって、辛くも髷の伝統は守られた。それと、明治の元老と呼ばれる伊藤博文、黒田清隆、後藤象二郎、板垣退助といった大物政治家たちが、いずれも大変な相撲好きだったために、新政府から相撲禁止論が出てきたときも、彼らの弁護によって、相撲は生き残れたのである。
その後、辛うじて年2回の相撲興行は催されていたものの、相撲は徐々に衰退の一途をたどり、経済的な不安に悩まされるようになった。しかし、その状態を打破しようとした男がいた。高砂浦五郎という男である。
明治22年(1889)に東京相撲会所が東京大角力協会と名を変えたとき、協会取締役に就任。勝ち星による給金の増額、番付の明確化など、相撲規則を細目にわたって制定し、組織、制度を整備して、相撲を近代化させたのである。
そして、組織、制度が整った相撲界が次に着手したのは、興行場の近代化であった。当時の相撲興行は、江戸時代から変わらない、小屋掛けの天幕張りで行われている晴天10日興行で、雨や雪が降ったり、強風が吹いたりすれば順延され、それが長引くようだと途中で打ち切りになるような状況だった。明治35年頃から雨が降っても相撲の行える相撲常設館を建設すべきであるとの声が上がってきていた。39年1月場所後から具体化し、5月には起工式が行われた。日本銀行本店や、東京駅などを設計した有名建築家辰野金吾博士による設計による、日本最初のドーム式円形建築であった。明治42年(1909)5月、3年の月日をかけてついに完成。6月2日には、皇族方、東京市長、両院議長、外国大使といったそうそうたる人々を迎えて開館式が華々しく行われた。
国技館の完成によって、それまで晴天興行に限られていた本場所は天候を問わず開催されるようになり、3、4000人ほどだった収容人数は、一挙に13000人以上にまで増え、相撲は大衆のものとして不動の位置を確保した。
大正時代に入ると、町に失業者があふれ、米騒動などが起きるような不安な世の中になっていった。そして、明治維新の頃のように人々はもはや相撲どころではなくなってしまった。明治後半には活況を呈していた相撲界は、再び衰退期に入ってしまい、学生相撲に人気を奪われるという事態にまで達した。そして大正12年(1923)9月1日の関東大震災によって国技館は全焼してしまった。
力士の方は、昔は四つ相撲が得意だった力士が多かったのだが、この時代、突っ張り一発で相手をふっ飛ばした太刀山を初めとする、個性的なスピードのある相撲をとる力士が増えてきた。大正時代は、相撲そのものの近代化が行われたといってよいだろう。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災によって東京相撲は経営難に苦しんでいた。そこで持ち上がってきたのが同じく経営難に悩む大阪相撲との合併話だった。明治の末頃からそのような話は何度かあったが、そのたびに立ち消えとなっていたのだ。表向きは組織の体質の相違を理由としていたが、実際は、明治末に黄金時代を迎えていた東京相撲にとって、格下の大坂相撲と合併するなどありえないというのが本音であった。
しかし、どん底にある以上、そんな事も言っていられなくなった。関東大震災の痛手から立ち直るための最後の手段として、大阪との合併を真剣に考えた。
大正14年(1925)4月、東京協会は摂政宮殿下(後の昭和天皇)から下賜された金一封をもとに大坂造幣局に依頼して純銀製の優勝賜杯を作成する。この光栄を東京だけで独占するわけにはいかない。これを機に東西合併するべきではないかと大阪協会を説得し、同年7月、大阪において合併の調印が行われた。さらに、11月には、大日本相撲連盟協会を発足させ、合併番付編成のための東西連盟相撲が京都、大阪で開かれた。そして、昭和2年(1927)1月、財団法人大日本相撲協会が設立され、大相撲は新たな時代へと突入していくのである。

●戦前の相撲界

昭和の初期は、江戸時代から続いてきたさまざまな制度が大きく変化した時期であった。
昭和3年、ラジオ放送が開始され、これに伴い、限られた放送時間内に収めるために、これまで無制限だった仕切りに制限時間を設けた。幕内10分、十両7分、幕下5分と、現在の制限時間の倍以上あった。また、この年には、仕切り線の設定も行われた。
昭和6年には、それまでの二重土俵を一重土俵に改め、土俵の直径を13尺(約4m)を15尺(約4.6m)に拡大し、土俵上の屋根を破風造りから、伊勢神宮と同じ神明作りに変えた。
そして名力士も数多く登場した。昭和になって初めての横綱玉錦、そして、未だ破られていない69連勝という大記録を持つ大横綱双葉山などである。

●戦後の相撲界

1945年に日本がポツダム宣言を受け入れ終止符を打った太平洋戦争。
この史上最悪の戦争は、相撲界にも大きな傷跡を残した。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で、両国国技館は被災し、周辺にあった相撲部屋もことごとく焼失した。焼け野原となった東京を襲ったのが深刻な食料不足で、みな空腹を抱え途方にくれていた。徴兵された力士たちも戦地から帰ってきたものの、明け荷は失われ、相撲部屋は壊滅状態、そして何より食べ物が無かった。相撲協会は真剣に解散を検討していた。
しかし、関係者の情熱が実を結び、同年11月には応急処置を施した国技館で秋場所を行う事が出来た。ひどい雨漏りのする状態で、国技館でありながら晴天10日間興行であった。
しかし、やがて国技館は占領軍に接収されてメモリアルホールと名を変えた。土俵は外に追い出され、明治神宮外苑相撲場の露天土俵で2年、トタン張りの浜町仮設国技館で1年を過ごす事になる。25年、東京浅草蔵前にバラックの仮設国技館が出来る。29年9月には蔵前国技館が落成し、60年に両国の新国技館が出来るまでの間、戦後の相撲史を刻む事になる。
そして協会は、双葉山の引退、プロ野球の人気によって先行きに不安を感じていた。その為観客動員のために様々な改革をおこなっていった。
昭和22年に、それまでの東西対抗戦の取組から一門系統別総当たり制の取組に変わった。殊勲・技能・敢闘の3賞もこの年に設けられた。25年には横綱審議委員会が設置された。27年には43年ぶりに力士のぼりが復活し、弓取り式が毎日行われるようになった。土俵の四本柱が取り除かれ、房に変わったのもこの年である。
場所数も、昭和28年からは年4場所、そのうち3月は大阪場所となった。32年からは11月の九州場所を加え年5場所となり、33年には7月の名古屋場所を加えて年6場所とし、今に至る。
戦後、横綱は29人誕生した。そのなかで、『栃若時代』『柏鵬時代』『北玉時代』『輪湖時代』『千代の富士時代』と、数々の名勝負を残した横綱の時代がいくつも起こった。彼らと、それを支えてきた名脇役達によって相撲人気は空前のものとなったのだっ

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桑田佳祐
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SUGIZO
スガシカオ
杉山清貴
鈴木惣一郎
鈴木雅之
鈴木康博
砂原良徳
世良公則
曽我泰久
反町隆史
高田三郎
高野寛
高橋克典
高橋幸宏
貴水博之
高見沢俊彦
高山厳
TAKUI
タケカワユキヒデ
武田鉄矢
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田中フミヤ
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田辺靖雄
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堂島孝平
徳永英明
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